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書の散歩道

2024宮城野書道会新年交歓会

司会の若生克象先生
恒例の代表新年試筆
会長挨拶

顧問参議院議員 桜井充先生ご挨拶
遠山青葉印刷 丹義秀副社長乾杯ご発声

新成家・師範認定証授与
新春誌上展受賞者表彰
出席者全員へ干支色紙贈呈

悦石のこと

 宮城野書道会の創始者である父佐藤悦石が亡くなってから、令和三年七月二十六日で三十三回忌を迎えます。現在在籍されている多くの会員の方々は悦石を直接知らないと思いますが、悦石の存在は本会の歴史の根幹ですので、この機会に悦石を偲びながら彼是を書いてみたいと思います。
 悦石(本名勇作)は宮城県多賀城市で鍛冶屋を生業とする家の長男として、明治四十四年十一月に生まれています。今年で生誕百十年ということになります。幼いころから書が好きだったようで、文検に憧れ師範学校に入り教師になることが夢のようでした。しかしながら長男は家業を継ぐか、お国の為に働くというのが当たり前の大正から昭和にかけての時代でしたから、高等小学校卒業後の進学も叶わず、中学の講義録を取り寄せて独学で、昭和五年十九歳で陸軍工科学校に入学しています。
 陸軍工科学校は、日本の兵器技術者とその幹部を養成するために教育機関です。昭和九年の志願者数は八、四〇〇人に対し合格者は一五〇人という記録がありますが、父が受験した年の合格者は宮城県で二人だけということもあり、祖父母も官報を手にして大変喜んでくれたという話でした。当時、陸軍工科学校は東京小石川にあり、昭和十一年の陸軍工科学校入学案内を国会図書館のアーカイブで見ると、入学当時は火工、鉄工、木工の三科から成り、後には鉄工は鋳工、鍛工、鞍工に分科したようですが、家業が鍛冶屋でしたので、鉄工科で主に兵器などの鍛工を学んだようです。
陸軍工科学校入学のため上京した悦石ですが、その後も書道に対する情熱は止むことはなく、関東周辺在住を機に軍務の傍ら、はじめ千葉の浅見喜舟先生に教えを請い、のちに書壇院の吉田苞竹先生に師事しています。両師とも当時の日本を代表する大家で、浅見先生は文部省教科書編集委員や千葉大学教授を歴任し、生涯を通じて書道教育に身を捧げた方です。一方の吉田苞竹先生は五十一歳という若さで亡くなられましたが、正統書道の権化であり、戦前の日本書壇を代表する天才でした。悦石はこの二人の先生に師事することが出来たことは、自分の生涯にとって何よりの賜であったと述懐しています。
 大東亜戦争が始まり、職業軍人の父は中尉として中国から東南アジア、ビルマ(現在のミャンマー)と前線で戦う部隊の後を追うように、兵器や車両などの保全修理に従事しています。父は戦時中のことについては語ることも少なかったのですが、資料によるとビルマでは、インパール作戦などの戦いによって三十万人を超える日本軍兵士のうち約六割が戦死したということで、まさに大変な戦況だったようです。しかし戦地でも筆墨は片時も身から離さず、字を書くことが何よりの安らぎだったようです。中国では玉版䇳という当時頗る上質な画仙紙を沢山買い求めて条幅揮毫の練習をし(書の光昭和四十四年十一月号で述懐)、現地の人々と書道展を開催しています。「日支書道展」と幟看板のあるその当時の写真を見た記憶があり、探してみましたが見つかりませんでした。一九四五年、悦石はビルマで終戦を迎えます。武装解除となり、同じ階級のイギリス指揮官に軍刀を渡す降伏式典があったという話は、昔のことですが悦石から聞いた覚えがあります。しかし立派な総のついた指揮刀が当時の家にあり、これは返還しなくて良かったものなのか今となっては判りません。
復員した悦石は、当初塩釜市駅前で鉈包丁そして農耕用具など、実家の鍛冶屋で作ったものを売る仕事の合間に書を教えていました。また当時の塩釜在住の青木喜山先生や塩竃神社に奉職されていた佐藤雨渓先生など、東北書道会の前身だった宮城書道連盟を通して知り合った先生方と書の勉強会をしていたようです。
昭和三十年春、家業は弟に任せ、親を連れて仙台市宮城野に居を構えて、書道専業の道を歩みます。戦後の厳しい世相のなかで、自宅のほか悦石の生地多賀城市の公民館や仙台市の知人宅を借りて、集い寄る子供相手に書道教室を開いて生活の糧としていました。戦前、泰東書道展などには出品経験があるようでしたが、宮城に戻ってからは書道展活動とは全くの無縁で、専ら書道教育者としての道を歩んでいます。
 昭和四十三年、それまで所属していた東北書道会を離れ、長年の念願であった本誌の発刊に漕ぎ着きます。今でしたら、お世話になった会から離れて独立するとなるとハードルも高く何かと問題もあるでしょうが、その当時は東北書道会発行誌に「書の光」の広告を載せて頂き、また数名の先生方には随意手本を「書の光」に寄せてもらっています。詳しい当時の状況は判りませんが、東北書道会会長だった髙橋鳳翠先生や多くの先生方と親しく交流していました。
悦石、五十七歳で漸く一家を成したことになり、「書の光の発刊に活路を探し求め得たことは、書生活への転機であり、喜びでもあった。」と第二回目の個展図録巻頭に述べています。しかしながら発刊当初は一般部の出品者も僅か七十名程度で、当時、第三種郵便物の認可基準が毎月千部以上発行ということでしたから、その大半は普及用に無料で配られ、採算を考えれば大きな賭けだったと思います。
 創刊当時の「書の光」の巻頭に、本会の主旨として「わかり易く正しい書道の研究と普及、書道による人間性の向上進歩、美しい実用書の研究」と記されてあります。これは「書の光」の発刊しようとした動機を如実に表していると同時に、悦石の書道観そのものです。また悦石は常々、書に大切なことは品性と風韻だと語っていました。それらのことは吉田苞竹先生発行の当時の「書壇」誌の巻頭にある「正しく学び、真面目に、真剣に」「高尚を学び、風韻を味わい……」の文言に見えるように、吉田苞竹先生に益を受けたことと大いに関係があるように思います。吉田先生は昭和初期に学生向けに本誌と同名の「書の光」という書道誌を発行されておられましたが、それに倣ったかどうかは判りませんが、その感化があったことは想像に難くありません。
その後、悦石は何処の書道団体にも属せず、中央との繋がりも持たず、いわば独立独歩の道を進みます。自分の好む古典に立脚し、己の信念に基づいての入木道でした。悦石は社中展(宮城野書道展)を独立してから平成元年に亡くなるまでの間に十六回、個展を二回開催しています。第一回目は当時仙台市錦町公園にあった仙台市美術館で開催しています。書展活動は公募展には参加せず年に一度の社中展だけでしたから、毎年のように、用意周到かつ充分溜めた屏風等の大作を制作しています。
我が家は五人兄弟で、末っ子の私は書の光創刊当時まだ小学六年生でした。家の経済状態は厳しかったに違いないのですが、悦石は書と併せて、日本画を山下梅僊先生に習いながら、毎月書の光の表紙を飾っていました。また詩吟や琴古流尺八なども趣味としています。「詩書画三絶」と中国文人の世界では言われますが、書展活動などの周辺事情の喧しい現在の書家に比べれば遥かに文雅な生活を送っていたといえるかもしれません。
 悦石の足跡と個人的な思い出話になりましたが、本会の生い立ちについて書かせていただきました。最後に書の光昭和四十四年一月号に掲載された悦石の一文を再録します。父悦石の書道観の一端を垣間見て頂ければと思います。
 
「無限の追及」   佐藤 悦石
 昨今の世情は誠に騒がしく、本来の人間性を喪失した感があります。われわれはこのような世情に押し流されることなく、常に自己の内心を見つめて清く明るく生きていきたいものです。
人間はとかく物や金に弱く、それを無くしては生きられない悲しい運命におかれているとも言えますが、一生それのみを追求して、本当の生きる歓び、生き甲斐を見失ってしまうことは誠に残念に思われます。
 畢竟、物自体は変化常なきものであり、心からわれわれを安心立命させる何ものもありません。青い鳥を探し求めて放浪した「チルチル」「ミチル」の喩え話は決して単なる寓話ではなく、姿、形を変えて現代人が再現しているとも考えられます。幸福の青い鳥は外には居らず、自分の中にあるのです。それはわれわれ人間が生れながらにして与えられている天の恵みです。それを発見し表現していくのが人生であり、また真の芸術であると私は信じております。
 私は旧年十一月の未、久し振りで日展を参観する機会を得ましたが、書や絵や工芸等に現わされている無限の美は倒底人間業とは思われないものが沢山ありました。併しそれでも未だ未だ満ち足りないものも感じました。それは、美そのものは無限であり、掬めども掬めども尽きぬ深さを待っているからです。自然の美も無限の美を表わしていますが、それすらも現象である以上、限定された美であります。
 人間がいろいろの美を観て、それを絵や書、工芸等によって表現したい意欲をもっていることは、既に自分の中にそれらの美を内包しているからだと思います。私は日展を観て帰る途中、神田の書店で、故吉田苞竹先生の筆蹟集を偶然発見しましたが、これは先生の優れた墨蹟を保存、公開する為に建てられた吉田苞竹記念館収蔵の一部をまとめたもので、それを拝見して今更ながらその書品の気高さに感動を新にしました。それは先生が五十年の生涯をかけて研鎖開発された人間性の深さを書によって表現されたものです。
われわれ人間にはそれぞれ個性があり、異った天分があり、従ってそれを表現する分野も変ってしまいますが、わたくしは書道を通じて自己を研鑽、開発することに無限の喜びと生甲斐を感じております。
 「書の光」発刊もその表現の一部でありますが、今年は更に精進努力して同好の皆様の御期待に応えていきたいと念じておりますので、本誌の生長発展の為に今年も一層の御支援をお願い申しあげる次第です。 (書の光昭和四十四年十一月号に掲載したものを原文のまま再編集。)
 

漢字書そして詩・書・画あれこれ

■漢字書の可読性について
 今月は私達が普段、作品の素材としている漢詩と書、さらに画に纏わる歴史などを辿ります。
 普段漢字書を書く場合は、殆どは漢詩など、漢字のみで構成された漢文作品を書いています。その内容は、言語的にも文学的にも非常に難解です。それは言うまでもなく、日本語と異なった中国の言語体系の中で生まれた漢文が主体で、三千年の歴史をもつ中国の詩は、様々な形式・内容ともにきわめて変化にとんでいて、容易に理解できるものではありません。
 漢字作家で原文の漢詩を読める人は多分少数派だと思います。日本で漢文を扱う場合は、日本語に翻訳して読むための便宜上の句読点やテニオハ、そして日本語の語順に変えて読む方法を示すレ点などの特殊な符号を付けたものが一般的です。つまり中国の文法的な規則を理解せずとも、直接日本語訳して読むことが出来るように工夫されていますので、原文から直接読む必要性はありません。また読み下し文が併記されている場合がほとんどです。原文から読む知識を獲得するよりは、解説書などによって詩文の内容をじっくり味わうことの方が大切なことです。
また漢字が読めることと、理解することは全く別な次元で、漢文の「況復(いわんやまた)」「雖然(いえども)」「無奈(いかんともするなし)」など、それだけでは意味のなさない虚字を多用した詩文漢文は最早、余程精通している人でないと理解することは不可能です。
書道展会場に陳列された作品は「読むもの」ではもともとありませんが、鑑賞者は、何という字が書いてあるか、読みたくなるものです。私たちが漢詩作品などを書道展などで発表する場合は、その題材を解説できるように、読み方や内容などの基礎的な知識は必要なことと思います。鑑賞者は何を書いたかを知ることによってその作品を理解する一助を求める場合も多々あります。
一方で、「書の美」と書かれている内容とは直接的な関連性はなく、読めずとも美しい作品、人の心を動かす作品は現に存在します。かつて明治時代に小山正太郎と岡倉天心との「書は美術ならず」の論争がありましたが、現在の書は、本来の実用価値から美術的芸術的な価値へと重心を移しています。
 前衛書家からは「漢字ばかり並べている書は、文字性を依存しない我々の仕事と素材的にはなんら変わらない。」という言葉が出てきます。もともと漢字は半具象半抽象といえ、現代の漢字作品は、文字の意味に関係なく抽象的な表現であり、この概念は正しいと言わざるを得ません。行草篆隷など様々な書体で書かれた漢字作品は文字の判別が困難で、一般の鑑賞者にとっては、前衛作品と漢字作品は単に文字性の有無だけの違いだけのようです。

■漢詩と書
漢詩に関しては、会誌書の光の「漢詩を味わう」で十年以上にわたって様々な詩を取り上げています。書に密接に関連していることもあり、漢詩に対する興味と関心を持たれる方も多いと思います。中国の詩の歴史からすれば、決して古いとは言えない唐詩でも、すでに千数百年を隔てていますが、それが近代の人々の心にも、素直に飛び込み、感動と共鳴を与えるということは、まったく驚嘆します。
それでは、まず日本人と漢詩との関係性はどのようなものだったのでしょうか。
 日本での漢詩の歴史は古く、奈良時代に日本人の漢詩を集めた漢詩集「懐風藻」の存在は、日本人と漢詩との古く久しい結びつきを物語っています。漢詩は日本文化に浸透し、日本文学の一形式ともなっていました。明治三十三年から昭和二十年までの中学校令施行規則では「国語及漢文」では、「習字」も正式科目として「平易ナ漢文ヲ講読セシメ且ツ習字ヲ授クベシ」とありますので当然とも言えますが、漢詩や論語などは日本人に愛され、教養の一部として読み継がれてきました。明治時代、詩と言えば漢詩を指す時代でしたが、正岡子規は生涯で六三〇篇もの漢詩を詠んでいて、十一歳で最初の漢詩「聞子規」を作っています。
一方で、現代では漢詩の制作者ばかりでなく、鑑賞者も少なくなりました。愛好者の減少とともに、漢詩に精通している人は稀で、漢詩本の解説書はその多くは書道愛好者が作品題材探しのために買い求めてられているということです。それも戦後教育において減少に拍車がかかったと言えます。
明治・大正時代の有名な日本の書道家の殆どは、漢籍に通じていて、自ら漢詩を作る人も多く存在しています。その例を関係資料などから取り上げてみます。
江戸時代末期から明治時代にかけての有名な書道家では、小野湖山や中林呉竹、長三州などがその代表的な人です。小野湖山は明治初期の漢詩壇で活躍し詩集を発刊しています。中林呉竹は市河米庵の門下で清国に渡って書法を勉強し、漢籍に精通して呉竹堂書話という書論を著しています。長三州は大久保利通の随員として清に渡ったことのある政治家ですが、廣瀬淡窓門下で詩と書の名手としても知られています。
また明治時代の書壇にあって名を馳せた、巌谷一六、杉聴雨、日下部鳴鶴の三人は、明治維新後に国事に参画した書人で漢籍に詳しい学者で詩人でもありました。そして明治時代の代表的な文人書家とも言われています。さらに政治家の副島蒼海(種臣)は詩人、書家としても卓越した人物でした。
明治後期から昭和初期にかけて有名な書道家である中村不折、比田井天来、宮島詠士などは、純粋な書道人として教育研究に携わり、日本の書道に大きな貢献を果たした人々ですが、漢詩漢文など漢籍に精通していた専業書家といえます。
 
■詩書画三絶
 中国書道史の解説では、宋時代ごろから文人という言葉が頻繁に登場します。唐時代までの貴族や進士など政治文化の中枢を担ってきたエリート層に代わって、庶民出身の読書人とか士大夫と呼ばれる階層が、文化の牽引者として注目されるようになります。一口に文人と呼ばれ場合がありますが、教養人として芸術一般に造詣が深く文雅を愛し風流を解する人々です。ときには例外的に文化一般を愛した皇帝に文人皇帝と冠して呼ぶことがあります。南唐の李煜や宋の徽宗、清の康煕帝や乾隆帝などが文人皇帝として有名です。
 その文人たちがこよなく愛した余技として代表的なものが、詩・書・画が挙げられます。中国では、古くから書画双絶とか詩書画三絶という言葉があります。それぞれに切り離せない密接な関係があり重んじられています。
まず書と画については、筆と墨を用いるという共通点があります。特に水墨画に用いる描線は、自由な変化を追求するうえで、線の肥痩潤渇や軽重、遅速の変化の多様さが求められ、ここに書画の共通点に見出すことができ、書画一致説が生まれます。文人画特有の梅竹蘭などの墨画では、筆法の融通が容易に行われ、書画一致説の観念が生まれた大きな要因です。また古代文字の一種が象形文字で書と画が共通の源からできていることも、書画一致説の根拠の一つともなっています。そして歴史上で名を成す多くの書人が書画両方に優れていて、前号で取り上げた趙孟頫もその一人です。
しかし、唐時代になっても画は衆工の技のように思われる傾向があったようです。唐時代、宰相で宮廷画家だった閻立本は、あるとき太宗が鳥の絵を所望したとき、近習のものから、画師として呼び出され、侍従らが遊ぶ宮中の池の傍で俯伏して鳥の即席画を書かせられたのを強く恥じ、なまじい画芸をもっていたため恥をかいたことから、子孫に画を習ってはならぬと戒めた話があります。画の地位が高まるのは、六朝時代からとも言われますが、それは王羲之王献之親子はじめ書の大家が画筆を執ったためで、詩・書に遅れて画が教養人の芸術となりきるのは宋時代に入ってからのことです。
宋時代は蘇軾・黄庭堅・米芾など士大夫などの文人書家の手によって、書の宮廷の芸術から庶民の文化に変遷を遂げた時期ですが、物の形を写すことを主眼としていた画も、物の形を借りて感情や書者の意思を表現するものになりました。このことで文人画というジャンルが確立することになります。ちなみに盛唐の詩人王維が文人画の祖と言われています。
書は外界に存在する物の形を写すものではないため、より直接的な心の表現であるとされ「書は心画なり」とも言われ、中国では早くから書の芸術性が認識されています。そして、書は詩文を書き表すための文字を写すことにおいて、詩文との関係が深く、教養人の芸術として古くから認められています。画は時代が古いほど物の形を正確に写す技倆とみられる傾向が強く、工人の仕事とみなされていたことと対照的です。
一方で、詩と画とは、それぞれの表現方法として言葉によるか物によるかの相違はありますが、同じように作者の人間的な心情に根ざすことから、詩画同源という観念があり、書ともまた根源を同じくするとします。画を無声の詩といい、詩を有聲の画ともいわれました。前述の「書は心画なり」と併せて、詩・書・画が深い結びつきがあり、今日までともに変遷してきたことが理解できます。しかし、今まで述べてきた諸事情から、歴史的には三者が同等の地位に立って併称されたのではなく、詩が第一で、書がこれに次ぎ、画が最後でした。中国の文人の教養は儒学が基本になっているために、儒学との関連性が深い詩は芸術であるまえに文人の必須の教養であり、書はそれを書き記すため必要な技術だったためです。しかし、詩・書・画のそれぞれの優位性を論じることは現在では意味をなさないことです。

■詩書画の連作
 詩・書・画が密接に結びついていることを容易に判るものに、画の題跋があります。題跋は書画巻冊の末尾にその由来説明や批評などを書き記す文章です。画の作者が書く場合もありますが、高名な書家などが後世になって書く場合も多く、画と同様に鑑賞の対象となっています。また画に関連する詩文などを画の余白に書き記す画賛などがあり、画によっては、余白のないくらいに隙間にびっしりと書かれたものもあり、奇異な感じがする場合もありますが、詩・書・画の強い結びつきの好例と言えます。
 明時代になると、文人の画には、詩文の自題を画面に書くのが普通になります。明の沈周以降は沈周を含めて明画の四大家といわれる文徴明・唐寅・董其昌などは詩文にも優れていて、これら緒家の画作品は併せて詩書が味わえる作品が多く、まさに文人趣味が結集したような様相を呈しています。南宗画派と言われる文人画が画壇の中心になってからは、ほかにも徐渭や鄭爕など素晴らしい作品が多く残されています。




2017宮城野書道会新年交歓会

書にまつわる普段感じていることなどを気ままに掲載します

模倣と創作

 書はほとんどの過去の書人が行ってきたように、その技法の習得過程において、臨書によって書技を磨き、見識を高めるという段階を経るのが一般的です。
 したがって臨書を離れて創作という場面になっても、その経験が創作の基礎となるのは当然といわなければなりません。しかし、また逆に臨書の場合においても、自分なりに古典の精神を解釈して表現することになれば、そこにはすでに創作的な要素を含んでいることになります。 
 このことによっても、創作と模倣の隔たりは程度の問題と見られ、比較的に模倣が少ない場合は創作といわれるに過ぎないかもしれません。もとより書作品の制作態度としては、創作を尊ぶべきであることはいうまでもありません。陶芸家の唐九郎は「下手は下手でもオリジナルだ」と言いましたが、意識して模倣するのは、古典の研究や技術の習得のためとか、学習目的の場合に限られなければならないでしょう。自己の作品として世に示すときはあくまで独自性を重んじることが必要です。このため、現在公募展などは臨書部を設けている場合は別として、臨書作品は受け付けないことが一般的です。 しかし公募展はじめ多くの書道展の実情は、指導者の手本に基づいて制作されたものが多いのが現状です。これは先ほど述べた、創作と模倣の隔たりが程度の問題で混沌としていて、また現在の多くの書道展が、条幅作品制作のための技術習得といった学習段階の延長線上にあり、ここに書作品を評価する難しさがあります。
 さて、指導者としての自分となると、教室では生徒に書道展や昇格試験の手本を与えています。そのほとんどが、一枚書きで手本というには語弊があります。あくまで文字素材としての参考書きに過ぎないのですが、与えられたほうは、手本を金科玉条のごとくそっくりに写し取ろうして努力します。その結果、自分でお気に入りの部分は似ておらず、癖ともいえる悪い点ばかり、忠実に再現いることが多いものです。生徒さんが私の手本で書いた作品を見て、自分の書を反省している次第です。
 
 

書の題材としての漢詩について

 日本の書壇は一般大衆にも読めて理解されやすい、調和体や近代詩文書といった書の普及に取り組んでいます。これは今後の日本の書の将来を考えて非常に重要なことです。一方で漢字作家は、書の美術性を如何に高めるかに腐心して、漢字作品の題材の漢詩などの文学性を軽視する傾向にあるのではないでしょうか。
 日頃、伝統書を主体に勉強し漢詩を積極的に書いている私たちでも、詩文は読めなくてもよいといった態度をとりがちです。一般の鑑賞者と作家との溝は結構深く、作家は可読性や書の一般大衆化とは逆に、古典を掘り下げて専門的、独善的になって他の作家との差別化を図ることに躍起になっているように感じます。特に漢字作家は漢詩を文字素材としてのみ扱うため、自分の書いた漢詩の内容に無関心である人も多いのではないでしょうか。例え読めたとしても、その詩の背景や詩の作者の感情や時代背景まで踏み込んで理解している人は、現在では少数派でしょう。
 そこで、小誌「書の光」では『漢詩を味わう』と題して、連月漢詩が作られた時代背景や作家の境遇まで踏み込んだ解説を試みています。無論、私も漢詩に関して素人で、自分自身勉強しながらの編集で試行錯誤の連続ですが、まずは皆さんが日ごろ勉強している書の題材にもっと興味を持ってもらいたいと思っています。漢詩も掘り下げて読むと、人間ドラマ満載で面白いですよ。

 

楷書を考える

   漢字の書体は大雑把に楷書、行書、草書、隷書、篆書と分けられます。そんななかでほとんど書の基礎は楷書から、ということになるのですが、この楷書が意外と曲者です。小学校で初めて筆をもち、まず決まって一の棒を練習することが多いようです。安定しない柔らかい筆を使うことがまず難しいのです。大人でも一の棒もきちんと書くことは難しい、さらに永字八法とも言われる基本点画をマスターして、さて筆で上手な字が書けるのはいつの事やらと思ってしまう初心者が大半だと思います。土台、墨を含ませた毛筆を合理的に動かして楷書という紙に定着した線でもって形を整える練習をするのですから難しいのに決まっています。

もともと字は符号であって、一本の線を引いて、一をあらわし、三本引けば三という数をしるしたまでで、一の横棒の正しい筆遣いなんて誰が決めたんだ、なんて言う愚痴も言いたくなります。楷書のよくトン・スー・トンといった運筆法が王羲之によって開拓されて、唐時代に確立された。などという書論を述べている解説書もあり、間違いではないと思いますが、これは、用筆上の便宜から必然的に到達した方法であることに気が付くには、楷書を相当マスターしてからのことだと思います。

書の美を考える目安として「形」と「動き」そして「変化」と「統一」があります。楷書は統一性、規則性を尊ぶ書体です。「動き」と「変化」よりも「形」と「統一」をまず念頭に考えなければならず、ちょっと堅苦しい書体とも言えます。楷書の楷は「のり、てほん」の字義をもち、各書体の中でもっとも法の備わった厳格な書体です。書の歴史の中で、篆書や隷書は石などに彫られた書体と、草書や行書のように紙に書かれる書体と二つ流れがあります。そのなかで楷書は紙に書かれるにも、石に刻されるにも似合う書体なのです。このため、まず楷書から始めて、その先にある自分の好きな書体へと進む足掛かりとするという考え方も成り立つと思います。昔は楷書十年などとよく言われ、楷書をみっちり十年かけて習い、筆遣いの原理を楷書で体得してから、ほかの書体へと進むのが王道とした考えもありました。しかし嗜好の変化の速い現代では、まず楷書だけ根気強く習うことは難しいことですし、プロの書家は別として、それが趣味と教養のための書として大きな意味があることとは思えません。

 書を始めるきっかけは最近の美文字ブームで、美しい字を書きたいという人と、どちらかといえば、心を遊ばせ、自己表現として手段として書を考える人と二分されるのではないでしょうか。後者の立場の人は、この堅苦しい楷書から早く脱出したいと考えるのは当然です。

 実際、楷書で作品を書くには、非常な鍛錬と根気が必要となります。それでも苦労して出来上がった作品で高い評価を得ることは至難といっていいでしょう。その難しい楷書を入門していきなり始めるのですから大変です。最近は書道展で楷書作品を目にすることが少ない状況も肯けます。隷書や篆書などより装飾性が乏しく、変化領域も限られている割に、作品化して評価を得ることが難しいということは、逆に書人にとって憧れの書体と言えるかもしれません。本誌でも楷書を規定課題としていますが、ぜひ用筆の基本として毛嫌いせず取り組んで頂きたいのですが、楷書だけで終わるのではなく、行書や草書、そして隷書と各体にも挑戦してください。書の楽しみが広がると思います。とくに「動き」と無限の「変化」を重視する行草体は、自由度が高く個性を発揮しやすい書体です。そして古典の臨書を中心に据えて勉強することによって書への興味も倍増すること請け合いです。

宮城野書道会
〒983-0045
宮城県仙台市宮城野区
宮城野一丁目12-28
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TEL.022-256-0827 (教室)
(受付時間:10:00~17:00)
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▼受付時間外はこちらまで
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