■漢字書の可読性について
今月は私達が普段、作品の素材としている漢詩と書、さらに画に纏わる歴史などを辿ります。
普段漢字書を書く場合は、殆どは漢詩など、漢字のみで構成された漢文作品を書いています。その内容は、言語的にも文学的にも非常に難解です。それは言うまでもなく、日本語と異なった中国の言語体系の中で生まれた漢文が主体で、三千年の歴史をもつ中国の詩は、様々な形式・内容ともにきわめて変化にとんでいて、容易に理解できるものではありません。
漢字作家で原文の漢詩を読める人は多分少数派だと思います。日本で漢文を扱う場合は、日本語に翻訳して読むための便宜上の句読点やテニオハ、そして日本語の語順に変えて読む方法を示すレ点などの特殊な符号を付けたものが一般的です。つまり中国の文法的な規則を理解せずとも、直接日本語訳して読むことが出来るように工夫されていますので、原文から直接読む必要性はありません。また読み下し文が併記されている場合がほとんどです。原文から読む知識を獲得するよりは、解説書などによって詩文の内容をじっくり味わうことの方が大切なことです。
また漢字が読めることと、理解することは全く別な次元で、漢文の「況復(いわんやまた)」「雖然(いえども)」「無奈(いかんともするなし)」など、それだけでは意味のなさない虚字を多用した詩文漢文は最早、余程精通している人でないと理解することは不可能です。
書道展会場に陳列された作品は「読むもの」ではもともとありませんが、鑑賞者は、何という字が書いてあるか、読みたくなるものです。私たちが漢詩作品などを書道展などで発表する場合は、その題材を解説できるように、読み方や内容などの基礎的な知識は必要なことと思います。鑑賞者は何を書いたかを知ることによってその作品を理解する一助を求める場合も多々あります。
一方で、「書の美」と書かれている内容とは直接的な関連性はなく、読めずとも美しい作品、人の心を動かす作品は現に存在します。かつて明治時代に小山正太郎と岡倉天心との「書は美術ならず」の論争がありましたが、現在の書は、本来の実用価値から美術的芸術的な価値へと重心を移しています。
前衛書家からは「漢字ばかり並べている書は、文字性を依存しない我々の仕事と素材的にはなんら変わらない。」という言葉が出てきます。もともと漢字は半具象半抽象といえ、現代の漢字作品は、文字の意味に関係なく抽象的な表現であり、この概念は正しいと言わざるを得ません。行草篆隷など様々な書体で書かれた漢字作品は文字の判別が困難で、一般の鑑賞者にとっては、前衛作品と漢字作品は単に文字性の有無だけの違いだけのようです。
■漢詩と書
漢詩に関しては、会誌書の光の「漢詩を味わう」で十年以上にわたって様々な詩を取り上げています。書に密接に関連していることもあり、漢詩に対する興味と関心を持たれる方も多いと思います。中国の詩の歴史からすれば、決して古いとは言えない唐詩でも、すでに千数百年を隔てていますが、それが近代の人々の心にも、素直に飛び込み、感動と共鳴を与えるということは、まったく驚嘆します。
それでは、まず日本人と漢詩との関係性はどのようなものだったのでしょうか。
日本での漢詩の歴史は古く、奈良時代に日本人の漢詩を集めた漢詩集「懐風藻」の存在は、日本人と漢詩との古く久しい結びつきを物語っています。漢詩は日本文化に浸透し、日本文学の一形式ともなっていました。明治三十三年から昭和二十年までの中学校令施行規則では「国語及漢文」では、「習字」も正式科目として「平易ナ漢文ヲ講読セシメ且ツ習字ヲ授クベシ」とありますので当然とも言えますが、漢詩や論語などは日本人に愛され、教養の一部として読み継がれてきました。明治時代、詩と言えば漢詩を指す時代でしたが、正岡子規は生涯で六三〇篇もの漢詩を詠んでいて、十一歳で最初の漢詩「聞子規」を作っています。
一方で、現代では漢詩の制作者ばかりでなく、鑑賞者も少なくなりました。愛好者の減少とともに、漢詩に精通している人は稀で、漢詩本の解説書はその多くは書道愛好者が作品題材探しのために買い求めてられているということです。それも戦後教育において減少に拍車がかかったと言えます。
明治・大正時代の有名な日本の書道家の殆どは、漢籍に通じていて、自ら漢詩を作る人も多く存在しています。その例を関係資料などから取り上げてみます。
江戸時代末期から明治時代にかけての有名な書道家では、小野湖山や中林呉竹、長三州などがその代表的な人です。小野湖山は明治初期の漢詩壇で活躍し詩集を発刊しています。中林呉竹は市河米庵の門下で清国に渡って書法を勉強し、漢籍に精通して呉竹堂書話という書論を著しています。長三州は大久保利通の随員として清に渡ったことのある政治家ですが、廣瀬淡窓門下で詩と書の名手としても知られています。
また明治時代の書壇にあって名を馳せた、巌谷一六、杉聴雨、日下部鳴鶴の三人は、明治維新後に国事に参画した書人で漢籍に詳しい学者で詩人でもありました。そして明治時代の代表的な文人書家とも言われています。さらに政治家の副島蒼海(種臣)は詩人、書家としても卓越した人物でした。
明治後期から昭和初期にかけて有名な書道家である中村不折、比田井天来、宮島詠士などは、純粋な書道人として教育研究に携わり、日本の書道に大きな貢献を果たした人々ですが、漢詩漢文など漢籍に精通していた専業書家といえます。
■詩書画三絶
中国書道史の解説では、宋時代ごろから文人という言葉が頻繁に登場します。唐時代までの貴族や進士など政治文化の中枢を担ってきたエリート層に代わって、庶民出身の読書人とか士大夫と呼ばれる階層が、文化の牽引者として注目されるようになります。一口に文人と呼ばれ場合がありますが、教養人として芸術一般に造詣が深く文雅を愛し風流を解する人々です。ときには例外的に文化一般を愛した皇帝に文人皇帝と冠して呼ぶことがあります。南唐の李煜や宋の徽宗、清の康煕帝や乾隆帝などが文人皇帝として有名です。
その文人たちがこよなく愛した余技として代表的なものが、詩・書・画が挙げられます。中国では、古くから書画双絶とか詩書画三絶という言葉があります。それぞれに切り離せない密接な関係があり重んじられています。
まず書と画については、筆と墨を用いるという共通点があります。特に水墨画に用いる描線は、自由な変化を追求するうえで、線の肥痩潤渇や軽重、遅速の変化の多様さが求められ、ここに書画の共通点に見出すことができ、書画一致説が生まれます。文人画特有の梅竹蘭などの墨画では、筆法の融通が容易に行われ、書画一致説の観念が生まれた大きな要因です。また古代文字の一種が象形文字で書と画が共通の源からできていることも、書画一致説の根拠の一つともなっています。そして歴史上で名を成す多くの書人が書画両方に優れていて、前号で取り上げた趙孟頫もその一人です。
しかし、唐時代になっても画は衆工の技のように思われる傾向があったようです。唐時代、宰相で宮廷画家だった閻立本は、あるとき太宗が鳥の絵を所望したとき、近習のものから、画師として呼び出され、侍従らが遊ぶ宮中の池の傍で俯伏して鳥の即席画を書かせられたのを強く恥じ、なまじい画芸をもっていたため恥をかいたことから、子孫に画を習ってはならぬと戒めた話があります。画の地位が高まるのは、六朝時代からとも言われますが、それは王羲之王献之親子はじめ書の大家が画筆を執ったためで、詩・書に遅れて画が教養人の芸術となりきるのは宋時代に入ってからのことです。
宋時代は蘇軾・黄庭堅・米芾など士大夫などの文人書家の手によって、書の宮廷の芸術から庶民の文化に変遷を遂げた時期ですが、物の形を写すことを主眼としていた画も、物の形を借りて感情や書者の意思を表現するものになりました。このことで文人画というジャンルが確立することになります。ちなみに盛唐の詩人王維が文人画の祖と言われています。
書は外界に存在する物の形を写すものではないため、より直接的な心の表現であるとされ「書は心画なり」とも言われ、中国では早くから書の芸術性が認識されています。そして、書は詩文を書き表すための文字を写すことにおいて、詩文との関係が深く、教養人の芸術として古くから認められています。画は時代が古いほど物の形を正確に写す技倆とみられる傾向が強く、工人の仕事とみなされていたことと対照的です。
一方で、詩と画とは、それぞれの表現方法として言葉によるか物によるかの相違はありますが、同じように作者の人間的な心情に根ざすことから、詩画同源という観念があり、書ともまた根源を同じくするとします。画を無声の詩といい、詩を有聲の画ともいわれました。前述の「書は心画なり」と併せて、詩・書・画が深い結びつきがあり、今日までともに変遷してきたことが理解できます。しかし、今まで述べてきた諸事情から、歴史的には三者が同等の地位に立って併称されたのではなく、詩が第一で、書がこれに次ぎ、画が最後でした。中国の文人の教養は儒学が基本になっているために、儒学との関連性が深い詩は芸術であるまえに文人の必須の教養であり、書はそれを書き記すため必要な技術だったためです。しかし、詩・書・画のそれぞれの優位性を論じることは現在では意味をなさないことです。
■詩書画の連作
詩・書・画が密接に結びついていることを容易に判るものに、画の題跋があります。題跋は書画巻冊の末尾にその由来説明や批評などを書き記す文章です。画の作者が書く場合もありますが、高名な書家などが後世になって書く場合も多く、画と同様に鑑賞の対象となっています。また画に関連する詩文などを画の余白に書き記す画賛などがあり、画によっては、余白のないくらいに隙間にびっしりと書かれたものもあり、奇異な感じがする場合もありますが、詩・書・画の強い結びつきの好例と言えます。
明時代になると、文人の画には、詩文の自題を画面に書くのが普通になります。明の沈周以降は沈周を含めて明画の四大家といわれる文徴明・唐寅・董其昌などは詩文にも優れていて、これら緒家の画作品は併せて詩書が味わえる作品が多く、まさに文人趣味が結集したような様相を呈しています。南宗画派と言われる文人画が画壇の中心になってからは、ほかにも徐渭や鄭爕など素晴らしい作品が多く残されています。