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書の散歩道

悦石のこと

 宮城野書道会の創始者である父佐藤悦石が亡くなってから、令和三年七月二十六日で三十三回忌を迎えます。現在在籍されている多くの会員の方々は悦石を直接知らないと思いますが、悦石の存在は本会の歴史の根幹ですので、この機会に悦石を偲びながら彼是を書いてみたいと思います。
 悦石(本名勇作)は宮城県多賀城市で鍛冶屋を生業とする家の長男として、明治四十四年十一月に生まれています。今年で生誕百十年ということになります。幼いころから書が好きだったようで、文検に憧れ師範学校に入り教師になることが夢のようでした。しかしながら長男は家業を継ぐか、お国の為に働くというのが当たり前の大正から昭和にかけての時代でしたから、高等小学校卒業後の進学も叶わず、中学の講義録を取り寄せて独学で、昭和五年十九歳で陸軍工科学校に入学しています。
 陸軍工科学校は、日本の兵器技術者とその幹部を養成するために教育機関です。昭和九年の志願者数は八、四〇〇人に対し合格者は一五〇人という記録がありますが、父が受験した年の合格者は宮城県で二人だけということもあり、祖父母も官報を手にして大変喜んでくれたという話でした。当時、陸軍工科学校は東京小石川にあり、昭和十一年の陸軍工科学校入学案内を国会図書館のアーカイブで見ると、入学当時は火工、鉄工、木工の三科から成り、後には鉄工は鋳工、鍛工、鞍工に分科したようですが、家業が鍛冶屋でしたので、鉄工科で主に兵器などの鍛工を学んだようです。
陸軍工科学校入学のため上京した悦石ですが、その後も書道に対する情熱は止むことはなく、関東周辺在住を機に軍務の傍ら、はじめ千葉の浅見喜舟先生に教えを請い、のちに書壇院の吉田苞竹先生に師事しています。両師とも当時の日本を代表する大家で、浅見先生は文部省教科書編集委員や千葉大学教授を歴任し、生涯を通じて書道教育に身を捧げた方です。一方の吉田苞竹先生は五十一歳という若さで亡くなられましたが、正統書道の権化であり、戦前の日本書壇を代表する天才でした。悦石はこの二人の先生に師事することが出来たことは、自分の生涯にとって何よりの賜であったと述懐しています。
 大東亜戦争が始まり、職業軍人の父は中尉として中国から東南アジア、ビルマ(現在のミャンマー)と前線で戦う部隊の後を追うように、兵器や車両などの保全修理に従事しています。父は戦時中のことについては語ることも少なかったのですが、資料によるとビルマでは、インパール作戦などの戦いによって三十万人を超える日本軍兵士のうち約六割が戦死したということで、まさに大変な戦況だったようです。しかし戦地でも筆墨は片時も身から離さず、字を書くことが何よりの安らぎだったようです。中国では玉版䇳という当時頗る上質な画仙紙を沢山買い求めて条幅揮毫の練習をし(書の光昭和四十四年十一月号で述懐)、現地の人々と書道展を開催しています。「日支書道展」と幟看板のあるその当時の写真を見た記憶があり、探してみましたが見つかりませんでした。一九四五年、悦石はビルマで終戦を迎えます。武装解除となり、同じ階級のイギリス指揮官に軍刀を渡す降伏式典があったという話は、昔のことですが悦石から聞いた覚えがあります。しかし立派な総のついた指揮刀が当時の家にあり、これは返還しなくて良かったものなのか今となっては判りません。
復員した悦石は、当初塩釜市駅前で鉈包丁そして農耕用具など、実家の鍛冶屋で作ったものを売る仕事の合間に書を教えていました。また当時の塩釜在住の青木喜山先生や塩竃神社に奉職されていた佐藤雨渓先生など、東北書道会の前身だった宮城書道連盟を通して知り合った先生方と書の勉強会をしていたようです。
昭和三十年春、家業は弟に任せ、親を連れて仙台市宮城野に居を構えて、書道専業の道を歩みます。戦後の厳しい世相のなかで、自宅のほか悦石の生地多賀城市の公民館や仙台市の知人宅を借りて、集い寄る子供相手に書道教室を開いて生活の糧としていました。戦前、泰東書道展などには出品経験があるようでしたが、宮城に戻ってからは書道展活動とは全くの無縁で、専ら書道教育者としての道を歩んでいます。
 昭和四十三年、それまで所属していた東北書道会を離れ、長年の念願であった本誌の発刊に漕ぎ着きます。今でしたら、お世話になった会から離れて独立するとなるとハードルも高く何かと問題もあるでしょうが、その当時は東北書道会発行誌に「書の光」の広告を載せて頂き、また数名の先生方には随意手本を「書の光」に寄せてもらっています。詳しい当時の状況は判りませんが、東北書道会会長だった髙橋鳳翠先生や多くの先生方と親しく交流していました。
悦石、五十七歳で漸く一家を成したことになり、「書の光の発刊に活路を探し求め得たことは、書生活への転機であり、喜びでもあった。」と第二回目の個展図録巻頭に述べています。しかしながら発刊当初は一般部の出品者も僅か七十名程度で、当時、第三種郵便物の認可基準が毎月千部以上発行ということでしたから、その大半は普及用に無料で配られ、採算を考えれば大きな賭けだったと思います。
 創刊当時の「書の光」の巻頭に、本会の主旨として「わかり易く正しい書道の研究と普及、書道による人間性の向上進歩、美しい実用書の研究」と記されてあります。これは「書の光」の発刊しようとした動機を如実に表していると同時に、悦石の書道観そのものです。また悦石は常々、書に大切なことは品性と風韻だと語っていました。それらのことは吉田苞竹先生発行の当時の「書壇」誌の巻頭にある「正しく学び、真面目に、真剣に」「高尚を学び、風韻を味わい……」の文言に見えるように、吉田苞竹先生に益を受けたことと大いに関係があるように思います。吉田先生は昭和初期に学生向けに本誌と同名の「書の光」という書道誌を発行されておられましたが、それに倣ったかどうかは判りませんが、その感化があったことは想像に難くありません。
その後、悦石は何処の書道団体にも属せず、中央との繋がりも持たず、いわば独立独歩の道を進みます。自分の好む古典に立脚し、己の信念に基づいての入木道でした。悦石は社中展(宮城野書道展)を独立してから平成元年に亡くなるまでの間に十六回、個展を二回開催しています。第一回目は当時仙台市錦町公園にあった仙台市美術館で開催しています。書展活動は公募展には参加せず年に一度の社中展だけでしたから、毎年のように、用意周到かつ充分溜めた屏風等の大作を制作しています。
我が家は五人兄弟で、末っ子の私は書の光創刊当時まだ小学六年生でした。家の経済状態は厳しかったに違いないのですが、悦石は書と併せて、日本画を山下梅僊先生に習いながら、毎月書の光の表紙を飾っていました。また詩吟や琴古流尺八なども趣味としています。「詩書画三絶」と中国文人の世界では言われますが、書展活動などの周辺事情の喧しい現在の書家に比べれば遥かに文雅な生活を送っていたといえるかもしれません。
 悦石の足跡と個人的な思い出話になりましたが、本会の生い立ちについて書かせていただきました。最後に書の光昭和四十四年一月号に掲載された悦石の一文を再録します。父悦石の書道観の一端を垣間見て頂ければと思います。
 
「無限の追及」   佐藤 悦石
 昨今の世情は誠に騒がしく、本来の人間性を喪失した感があります。われわれはこのような世情に押し流されることなく、常に自己の内心を見つめて清く明るく生きていきたいものです。
人間はとかく物や金に弱く、それを無くしては生きられない悲しい運命におかれているとも言えますが、一生それのみを追求して、本当の生きる歓び、生き甲斐を見失ってしまうことは誠に残念に思われます。
 畢竟、物自体は変化常なきものであり、心からわれわれを安心立命させる何ものもありません。青い鳥を探し求めて放浪した「チルチル」「ミチル」の喩え話は決して単なる寓話ではなく、姿、形を変えて現代人が再現しているとも考えられます。幸福の青い鳥は外には居らず、自分の中にあるのです。それはわれわれ人間が生れながらにして与えられている天の恵みです。それを発見し表現していくのが人生であり、また真の芸術であると私は信じております。
 私は旧年十一月の未、久し振りで日展を参観する機会を得ましたが、書や絵や工芸等に現わされている無限の美は倒底人間業とは思われないものが沢山ありました。併しそれでも未だ未だ満ち足りないものも感じました。それは、美そのものは無限であり、掬めども掬めども尽きぬ深さを待っているからです。自然の美も無限の美を表わしていますが、それすらも現象である以上、限定された美であります。
 人間がいろいろの美を観て、それを絵や書、工芸等によって表現したい意欲をもっていることは、既に自分の中にそれらの美を内包しているからだと思います。私は日展を観て帰る途中、神田の書店で、故吉田苞竹先生の筆蹟集を偶然発見しましたが、これは先生の優れた墨蹟を保存、公開する為に建てられた吉田苞竹記念館収蔵の一部をまとめたもので、それを拝見して今更ながらその書品の気高さに感動を新にしました。それは先生が五十年の生涯をかけて研鎖開発された人間性の深さを書によって表現されたものです。
われわれ人間にはそれぞれ個性があり、異った天分があり、従ってそれを表現する分野も変ってしまいますが、わたくしは書道を通じて自己を研鑽、開発することに無限の喜びと生甲斐を感じております。
 「書の光」発刊もその表現の一部でありますが、今年は更に精進努力して同好の皆様の御期待に応えていきたいと念じておりますので、本誌の生長発展の為に今年も一層の御支援をお願い申しあげる次第です。 (書の光昭和四十四年十一月号に掲載したものを原文のまま再編集。)
 

2017宮城野書道会新年交歓会

書にまつわる普段感じていることなどを気ままに掲載します

模倣と創作

 書はほとんどの過去の書人が行ってきたように、その技法の習得過程において、臨書によって書技を磨き、見識を高めるという段階を経るのが一般的です。
 したがって臨書を離れて創作という場面になっても、その経験が創作の基礎となるのは当然といわなければなりません。しかし、また逆に臨書の場合においても、自分なりに古典の精神を解釈して表現することになれば、そこにはすでに創作的な要素を含んでいることになります。 
 このことによっても、創作と模倣の隔たりは程度の問題と見られ、比較的に模倣が少ない場合は創作といわれるに過ぎないかもしれません。もとより書作品の制作態度としては、創作を尊ぶべきであることはいうまでもありません。陶芸家の唐九郎は「下手は下手でもオリジナルだ」と言いましたが、意識して模倣するのは、古典の研究や技術の習得のためとか、学習目的の場合に限られなければならないでしょう。自己の作品として世に示すときはあくまで独自性を重んじることが必要です。このため、現在公募展などは臨書部を設けている場合は別として、臨書作品は受け付けないことが一般的です。 しかし公募展はじめ多くの書道展の実情は、指導者の手本に基づいて制作されたものが多いのが現状です。これは先ほど述べた、創作と模倣の隔たりが程度の問題で混沌としていて、また現在の多くの書道展が、条幅作品制作のための技術習得といった学習段階の延長線上にあり、ここに書作品を評価する難しさがあります。
 さて、指導者としての自分となると、教室では生徒に書道展や昇格試験の手本を与えています。そのほとんどが、一枚書きで手本というには語弊があります。あくまで文字素材としての参考書きに過ぎないのですが、与えられたほうは、手本を金科玉条のごとくそっくりに写し取ろうして努力します。その結果、自分でお気に入りの部分は似ておらず、癖ともいえる悪い点ばかり、忠実に再現いることが多いものです。生徒さんが私の手本で書いた作品を見て、自分の書を反省している次第です。
 
 

書の題材としての漢詩について

 日本の書壇は一般大衆にも読めて理解されやすい、調和体や近代詩文書といった書の普及に取り組んでいます。これは今後の日本の書の将来を考えて非常に重要なことです。一方で漢字作家は、書の美術性を如何に高めるかに腐心して、漢字作品の題材の漢詩などの文学性を軽視する傾向にあるのではないでしょうか。
 日頃、伝統書を主体に勉強し漢詩を積極的に書いている私たちでも、詩文は読めなくてもよいといった態度をとりがちです。一般の鑑賞者と作家との溝は結構深く、作家は可読性や書の一般大衆化とは逆に、古典を掘り下げて専門的、独善的になって他の作家との差別化を図ることに躍起になっているように感じます。特に漢字作家は漢詩を文字素材としてのみ扱うため、自分の書いた漢詩の内容に無関心である人も多いのではないでしょうか。例え読めたとしても、その詩の背景や詩の作者の感情や時代背景まで踏み込んで理解している人は、現在では少数派でしょう。
 そこで、小誌「書の光」では『漢詩を味わう』と題して、連月漢詩が作られた時代背景や作家の境遇まで踏み込んだ解説を試みています。無論、私も漢詩に関して素人で、自分自身勉強しながらの編集で試行錯誤の連続ですが、まずは皆さんが日ごろ勉強している書の題材にもっと興味を持ってもらいたいと思っています。漢詩も掘り下げて読むと、人間ドラマ満載で面白いですよ。

 

楷書を考える

   漢字の書体は大雑把に楷書、行書、草書、隷書、篆書と分けられます。そんななかでほとんど書の基礎は楷書から、ということになるのですが、この楷書が意外と曲者です。小学校で初めて筆をもち、まず決まって一の棒を練習することが多いようです。安定しない柔らかい筆を使うことがまず難しいのです。大人でも一の棒もきちんと書くことは難しい、さらに永字八法とも言われる基本点画をマスターして、さて筆で上手な字が書けるのはいつの事やらと思ってしまう初心者が大半だと思います。土台、墨を含ませた毛筆を合理的に動かして楷書という紙に定着した線でもって形を整える練習をするのですから難しいのに決まっています。

もともと字は符号であって、一本の線を引いて、一をあらわし、三本引けば三という数をしるしたまでで、一の横棒の正しい筆遣いなんて誰が決めたんだ、なんて言う愚痴も言いたくなります。楷書のよくトン・スー・トンといった運筆法が王羲之によって開拓されて、唐時代に確立された。などという書論を述べている解説書もあり、間違いではないと思いますが、これは、用筆上の便宜から必然的に到達した方法であることに気が付くには、楷書を相当マスターしてからのことだと思います。

書の美を考える目安として「形」と「動き」そして「変化」と「統一」があります。楷書は統一性、規則性を尊ぶ書体です。「動き」と「変化」よりも「形」と「統一」をまず念頭に考えなければならず、ちょっと堅苦しい書体とも言えます。楷書の楷は「のり、てほん」の字義をもち、各書体の中でもっとも法の備わった厳格な書体です。書の歴史の中で、篆書や隷書は石などに彫られた書体と、草書や行書のように紙に書かれる書体と二つ流れがあります。そのなかで楷書は紙に書かれるにも、石に刻されるにも似合う書体なのです。このため、まず楷書から始めて、その先にある自分の好きな書体へと進む足掛かりとするという考え方も成り立つと思います。昔は楷書十年などとよく言われ、楷書をみっちり十年かけて習い、筆遣いの原理を楷書で体得してから、ほかの書体へと進むのが王道とした考えもありました。しかし嗜好の変化の速い現代では、まず楷書だけ根気強く習うことは難しいことですし、プロの書家は別として、それが趣味と教養のための書として大きな意味があることとは思えません。

 書を始めるきっかけは最近の美文字ブームで、美しい字を書きたいという人と、どちらかといえば、心を遊ばせ、自己表現として手段として書を考える人と二分されるのではないでしょうか。後者の立場の人は、この堅苦しい楷書から早く脱出したいと考えるのは当然です。

 実際、楷書で作品を書くには、非常な鍛錬と根気が必要となります。それでも苦労して出来上がった作品で高い評価を得ることは至難といっていいでしょう。その難しい楷書を入門していきなり始めるのですから大変です。最近は書道展で楷書作品を目にすることが少ない状況も肯けます。隷書や篆書などより装飾性が乏しく、変化領域も限られている割に、作品化して評価を得ることが難しいということは、逆に書人にとって憧れの書体と言えるかもしれません。本誌でも楷書を規定課題としていますが、ぜひ用筆の基本として毛嫌いせず取り組んで頂きたいのですが、楷書だけで終わるのではなく、行書や草書、そして隷書と各体にも挑戦してください。書の楽しみが広がると思います。とくに「動き」と無限の「変化」を重視する行草体は、自由度が高く個性を発揮しやすい書体です。そして古典の臨書を中心に据えて勉強することによって書への興味も倍増すること請け合いです。

宮城野書道会
〒983-0045
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(受付時間:10:00~17:00)
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